東京帝国大学教授
「民本主義」を提唱
吉野作造は明治11年(1878)に宮城健志田郡大柿村(現: 大崎市古川十日町)で糸綿商吉野屋を営む家の長男として生まれた。6歳で古川尋常小学校入学後、高等小学校に進み、首席で卒業。同25年(1892)に、開校したばかりの宮城県尋常中学校(現: 仙台一高)に入学した。
この時、校長であった国学者の大槻文彦から教えを受けた。また、世界に関心を向け、校内の回覧雑誌を編集するようにもなり、後の吉野の研究、執筆活動の基礎が作られた。
明治30年(1897)に旧制第2高校(現: 東北大学)に入学。アメリカ人女性宣教師、 アニー・ S ・ブ ゼ ル が開く聖書研究会に参加するようになり、吉野はキリスト教徒になり、洗礼を受けた。ブゼルからは世の為、人の為に生きることを教わり、それが吉野の思想の根本になった。
吉野は明治33年(1900)に東京帝国大学法科大学に入学。小野塚喜平次から政治学を教わった。また、本郷教会の海老名弾正牧師の『新人』の編集に参加し、キリスト教徒と共に政治について考えるようになった。同27年(1904)に首席で卒業後、大学院に進み、同29年には袁世凱の息子の家庭教師として天津に赴き、中国に3年間滞在した。
その後、明治43年(1910)から政治学研究の為に3年間ヨーロッパに留学した。その目的は、師の小野塚喜平次から学んだ衆民政の比較研究を、ドイツを中心に実地に見聞することだった。プロテスタントの信仰を持つ吉野らしくプロテスタントの教会をはじめとする宗教事情に大きな関心を持ち、現地でも多くの教会を訪ねている。また、理論的にも心の内でも天皇を中心とした君主制を強く支持していた吉野はヨーロッパの君主制について研究した。ウイーン滞在中に乃木希典大将を迎えた時には他の在留日本人と共に万歳三唱しており、乃木大将がそののち殉死したときには感激していたという。
吉野は現地の弱者保護運動や労働者との交流、婦人運動にも関心を示し、また、欧州の各国の議会にも大きな関心をよせ、ドイツ帝国議会を始め、欧州各国の議会を傍聴したり、外から見学するなどした。また、政治集会や講演会にも足を運び研究した。
大正2年(1913)に留学を終えて帰国した吉野は東京帝国大学で政治史講座を担当することになった。翌年教授となり、その翌年には法学博士の学位を受けた。吉野は帰国後すぐに、「中央公論」編集主幹の滝田樗陰(ちょいん)に誘われ『中央公論』に論文を発表するようになる。そして吉野は、大正5年(1916)1月『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という長文の論文を発表した。ここでは「民本主義」を唱え、日本中に大きな波紋を起こした。
吉野の民本主義では、日本において主権は君主(天皇)にあるが、政治は一般民衆の為にあり、主権を行使するにあたっては人民の考えや意向が尊重されるべきである。そのためには少数の特権階級の意見のみを聞くのではなく、広く多くの人に相談し、政策の最終的な決定は人民の考え・意向に基づくべきであると説き、すべての民衆が参加できる普通選挙を目指した。以後、吉野は大正デモクラシーの主要な論客となり、その流れは大正14年(1925)5月の普通選挙法公布につながった。
また、吉野作造は明治38年(1905)に、海老名弾正らと「朝鮮問題研究会」を発足させ、以後朝鮮に対する関心を常に持ち続けた。当初は日本が朝鮮を統治すれば、朝鮮の人民が豊かになり、幸せになると考えていたが、大正5年(1916)満州と朝鮮の視察を終えた吉野は日本の朝鮮統治政策に疑問を呈するようになり、「朝鮮人を蔑視し虐待しているようでは、到底同化をしていくことはできない」と語っている。朝鮮半島で1919年の3・1独立運動が勃発すると「中央公論」に「朝鮮暴動善後策」と題して寄稿し、「一視同仁政策の必然の結果は、朝鮮人にある種の自治を認める方針でなければならない」と論じた。吉野の民本主義は日本国内だけではなく、朝鮮半島においてもそうであるべきだと説いたのである。同年、東京で独立運動家の呂運享(ヨ・ウニョン)と交流し、講演会を開いている。
大正13年(1924)に東京帝国大学教授を辞職し、同年11月に明治文化研究会を組織した。その後『明治文化全集』30巻を刊行し、吉野は「民本主義」の信奉者なった宮武外骨と共に東京帝国大学・明治新聞雑誌文庫(現:近代日本法政史資料センター)の創立と発展の為に尽力した。宮武は全国の旧家を回るなどして新聞・雑誌を蒐集した。これらの資料は文化史的に価値があるもので、現在まで広く研究の為に使用されている。
また、キリスト教の趣旨の基づき、婦人小児の保護・保険・救療の目的で1918年に賛育会の創立に参画し、その後、理事長を務めるなど、貧者、弱者に寄り添う姿勢を崩さなかった。
昭和2年(1927)、女子経済専門学校(現:新渡戸文化学園)理事・教授になるが、そのころから吉野は政治にかかわるようになり、大正15年(1926)に右派無産政党・社会民衆党(後の民社党)の結成に参画している。昭和7年には社会大衆党(社会民衆党が労農党・全国大衆党と合流して結成された)の顧問に就任した。
昭和8年(1933)1月に結核の為、賛育会病院に入院し、同年3月18日に逗子の湘南サナトリウムでこの世を去った。享年55歳。
天皇を中心とした国体がいかにあるべきか、そして日本国民が幸せであるためには何が必要かを真剣に考え、実践した人生だった。吉野が思い描いた日本の国体及び政治は、今になって実現しつつあるのかもしれない。
(宗教新聞令和5年4月10日号掲載)
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