公爵夫人、女子英学塾(現:津田塾大学)理事
夫・大山巌元帥を支え、日本の発展に貢献した鹿鳴館の貴婦人
大山捨松(幼名・山川さき)は安政7年(1860)に会津若松で会津藩家老山川重固の末娘として生まれた。会津戦争の時は8歳であったが、家族と共に鶴ヶ城に籠城し、弾薬の運搬をして戦いを支えた。この時の経験は捨松の人生に大きな影響を与えた。落城後は青森の斗南藩に移った家族と離れ、箱館のフランス人の家庭に預けられた。
明治4年(1871)北海道開拓使からアメリカへ派遣される女子留学生の募集が行われると、山川家は将来を見据え捨松を送ることにした。同年に兄の山川健次郎もアメリカに留学している。アメリカに送られた女子留学生は捨松を含め5人だった。年長の2人はホームシックにかかり帰国したが、残った3人、捨松と津田梅子、永井繁子(後の瓜生繁子)はアメリカの文化に順応していった。この3人は別々の家庭に寄宿先が分かれていったが、交流を続け、後々まで盟友として互いに助け合った。
捨松はコネティカット州ニューヘイブン市のキリスト教の牧師、レナード・ベーコン氏宅に寄宿した。そこで高校を卒業するまで生活したが、ベーコン家の末娘のアリスとは年齢が近いこともあり、すぐに仲良くなり、生涯の親友となった。捨松は地元のヒルハウス高校に通い、また、町の有力な女性たちが行うボランティア活動やチャリティーバザーに参加した。この経験が日本に帰ってから生きるようになる。そして捨松は女子大学の名門、ヴァッサー大学に進学。東洋人で「サムライの娘」である捨松は、成績も優秀で、同級生から大変慕われていたという。卒業式で捨松が行った講演「日本に対する英国の外交政策」は好評で現地の新聞でもその内容が報道された。卒業後はニューヘイブンの病院で2カ月間、実地の看護に従事し、看護師の免許を取得した。
日本人女性として初めて大学を、しかも優秀な成績で卒業して、明治15年(1882)に帰国した捨松であったが、お国の為に働きたいと思いながらも、一向に政府からの仕事が提供されなかった。長いアメリカの生活で、日本語を忘れてしまった捨松にできることは多くはなく、失意の日々を送っていた。
ちょうどその時、薩摩出身の陸軍中将・大山巌は若い妻に死なれ、3人の娘を育てることのできる後妻を探していた。大山は陸軍卿として外国の要人と外交を行う時に様々な場面で同伴できる女性を望んでいた。
親友の繁子が海軍武官瓜生外吉と結婚することになり、捨松は二人の結婚式に参加し、結婚披露宴で余興として仲間と共に「ベニスの商人」を上演し、そこでポーシャの役を演じた。同じくそこに参加し、余興を見ていた大山は捨松の美しさに心を奪われ、捨松こそ自分の妻に相応しいと思うようになった。その後大山は捨松の長兄、山川浩に縁談を申込む。会津を攻撃した仇敵薩摩の人間である大山との結婚に対して山川は反対であった。「山川家は逆賊だから」と断ったが、大山の従兄・西郷従道が「大山も逆賊の身内である」と助け舟を出して、根気よく説得した。山川は熱意に押され、結局「本人がよかったら」と答えたという。捨松は大山に会い、デートを重ね、大山の人柄と女性を大切にする姿勢が気に入り結婚を承諾した。
結婚後は3人の娘を育てながら、大山巌夫人として社交の場に出席し、多忙な日々を送った。特に外務卿の井上馨が鳴り物入りで建設した西洋館「鹿鳴館」において、西洋式マナー、舞踏の仕方を知らなかった日本人の中でひときわ輝きを見せたのは捨松だった。背も高く、アメリカ仕込みで優雅に踊る伯爵夫人・捨松は諸外国の人々の注目の的になり、いつしか「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになった。他の華族女性たちにも西洋文化を教え、さらに皇室からも助言を求められるようになった。その間出産や子育てがありながらも、連日のように開かれる行事の為、お国の為に休まずに夫を支え、日本の外交を支えた。
ある時は、有志共立東京病院の院長・高木兼寛男爵に女性看護師を養成する学校の設立を進言し、設立のためのバザーを他の華族の婦人たちと共に鹿鳴館で開いた。自身も看護師の資格を持ち、またニューヘイブン市でチャリティーバザーをした経験がこの時に役に立った。当初の目標額を大幅に上回る金額が集まったという。こうして日本初の看護師養成学校(同病院看護婦教習所)が設立された。
そして、捨松が留学当初から盟友である津田梅子、瓜生繁子と共に抱いていた女子教育に対する思いは、津田梅子が女子英学校(現:津田塾大学)を明治33年(1900)に創立したことにより、実を結ぶようになる。捨松も、英学校の理事、顧問、ある時は校長代理として最大限津田を支えた。当初は経営が苦しい時もあったが、津田の噂を聞いて入学する女子学生が増えていった。
夫の大山巌が、日清戦争に第2軍司令官として、日露戦争では満州軍総司令官として、日本の運命を賭けて出征した時には、捨松は献身的にその妻として銃後を支えた。日本赤十字社での戦傷者の看病、兵士に必要な包帯やその他の備品の調達、愛国婦人会の活動、寄付金集めなどを自ら率先して行った。また、兵士の家族を訪問し、彼らに様々な援助をするなど、出征兵士の家族をいたわった。
大正8年(1919)に津田梅子が病に倒れると、捨松は自ら先頭に立って塾の運営を支えた。津田梅子は自身の退任を決め、療養に専念する事になった。塾長の後任の選定のために、当時流行していたスペイン風邪にかかっていたにもかかわらず、病を押して動いていたが、その無理がたたり、後任の就任にこぎつけるもつかの間、就任式の翌日に倒れてしまった。その後は病状が回復せず、同年2月18日に58歳で生涯を閉じた。
日本を外敵から守るために軍人である夫・大山巌元帥を支え、日本の外交、教育、医療の発展の為にすべてを捧げた人生だった。
(宗教新聞令和5年2月10日号掲載)
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