榎本武揚

愛国者の肖像

蝦夷共和国総裁 海軍中将 外務大臣 農商務大臣 東京農業大学創始者

日本の外交、科学、殖産に貢献

 榎本武揚(幼名・釜次郎)は天保7年(1836)8月25日に江戸下谷御徒町柳川横町で直参旗本、榎本武規の次男として生まれた。江戸で生まれ育った榎本は人情に厚く、涙もろい性格だったという。父は伊能忠敬に師事し、日本地図完成に尽力した人物で、榎本も幼いころから儒学など様々な学問を習い、後には中浜(ジョン)万次郎の私塾で英語も学んでいる。嘉永4年(1851)に昌平坂学問所に入学し、その後当時の箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地の箱館に渡り、堀と共に蝦夷や樺太の地の巡視に随行した。
 安政4年(1857)に第長崎海軍伝習所に入学。そこでは後にオランダの海軍大臣になるカッテンディーケらから航海術・砲術・測量術などを学ぶ。同5年修了、江戸の築地軍艦操練所の教授となる。そして幕府のオランダへの蒸気軍艦1隻(開陽丸)発注に伴い、文久2年(1862)から慶応3年までの5年間、オランダへ留学した。 ハーグに下宿し、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学んだ。滞在中、榎本はプロイセン・オーストリア連合軍とデンマークの戦い、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として見学したり、パリに赴き、フランス海軍と軍艦建造について交渉をし、また英国も訪問している。
完成した開陽丸と共に慶応3年(1867)に横浜港に戻った榎本は、幕府により開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられ、その後軍艦頭となり、和泉守を名乗った。同年9月には幕府の艦隊を率いて大坂湾へ向かい、将軍慶喜を守るためにそこで待機した。大政奉還、王政復古の大号令の後、同4年1月に鳥羽伏見の戦いが始まる。同時に薩摩藩の軍艦春日丸、運送船翔凰丸が鹿児島へ帰ることを発見した榎本は、追撃し(阿波沖海戦)、砲撃を浴びせた。春日丸は逃げることができたが、翔凰丸は座礁し、薩摩藩士は火をつけて放棄した。鳥羽伏見の一連の戦いの中で唯一の幕府側の勝利であった。春日丸には後の元帥海軍大将、東郷平八郎が乗り組んでいた。幕府軍の地上での敗戦によって、榎本も退却を余儀なくされ、大阪城の武器と金銭を積み、また新選組や負傷兵らとともに江戸に帰った。その後、幕府海軍副総裁に任ぜられている。
 連戦連敗の幕府軍の中で唯一勝利を収めた榎本には兵士からの信頼が厚く、徳川慶喜が恭順の姿勢を表し、勝海舟が江戸城無血開城を決定した後も榎本はそれに従わなかった。将軍が駿河の地に移封されるのを見届けた後、8月になると江戸を脱出し、開陽丸をはじめとした8艦の旧幕府艦隊、そして彰義隊の生き残りなどを2千名の軍勢を率いて奥羽越列藩同盟の支援に向かった。9月に仙台に到着するが、その頃にはすでに奥羽越列藩同盟は崩壊し、仙台藩も降伏を決めるところだった。仙台藩を説得しようしたらが、失敗。その為、桑名藩主・松平定敬、伝習隊隊長大鳥圭介、新選組副長土方歳三、仙台藩を脱藩した額兵隊などと合流し、総勢3千名で蝦夷地の箱館に向かった。
 蝦夷地に着いた榎本と旧幕府軍は各地で新政府軍を破り、同11月に五稜郭に入城する。そして日本で初めて選挙(士官以上による)が行われ、12月15日、蝦夷地全島平定の祝賀祭が催され、榎本を総裁とする政権の樹立を宣言した。それは留学先のオランダを模した、一つのモデル国家を創建しようという動きであったが、決して天皇に反旗を翻したというものではなく、ただ、薩摩・長州などの藩による新政府を認めないというものだった。英国とフランスからは「事実上の政権(Authorities de facto)」と認定され、両国は中立を守ったが、アメリカは新政府への支持を表明する。そして幕府が買い付けた最新鋭の装甲艦・甲鉄が榎本の手ではなく、新政府に引き渡された、明治2年3月、榎本は甲鉄を取り返すべく、移乗攻撃(アボルダージュ)による奇襲を宮古湾に停泊する甲鉄に試みたが、失敗に終わる。4月に新政府軍が蝦夷に上陸すると旧幕府軍は奮戦するが、圧倒的な数的優位と、最新兵器を持つ新政府軍に次第に追い詰められ、土方歳三は戦死、5月18日に榎本は降伏した。
 榎本は投獄され、死を覚悟していたが、箱館攻撃の指揮を執っていた黒田清隆や福沢諭吉は彼の高い能力を惜しみ、助命を主張した。黒田は榎本の為に剃髪までしたという。明治5年(1872)に特赦により出獄、黒田清隆が次官を務めていた明治政府の開拓使へ出仕し、黒田と共に北海道開拓に従事した。以後、榎本は黒田の盟友として、外交などで黒田と共に働くようになり、長男の武憲は黒田の娘梅子と結婚している。同7年にロシア帝国との交渉の為、駐露特命全権公使に任命され、合わせて海軍中将に任命された。ロシアの実情を探りながら、黒田の主張する樺太放棄論を軸に交渉を続け、同8年5月に外務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフとの間に、樺太をロシアの領土とし、千島列島を日本の領土とする樺太・千島交換条約を結んだ。同11年に日本に戻った榎本は、その後外務省に出仕、外務大輔(次官)となる。
明治13年には海軍卿に就任、同15年には駐清全権公使として北京に赴任し、朝鮮の甲申事変後に清と天津条約を結ぶのに貢献した。同18年には清と共に交渉した伊藤博文が第1代内閣総理大臣に任命されると、旧幕府側としてただ1人逓信大臣として入閣した。明治20年には子爵に叙され、同21年には電気学会の初代会長となった。同22年には文部大臣に就任する。
榎本は旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のために設立された徳川育英会を母体に、明治24年(1891)に東京・飯田橋に徳川育英会を母体とした育英黌農業科を設立。管理長に就任した。後の東京農業大学である。同26年には東京農学校と改称し、榎本は校主となった。
 明治24年にはロシア皇太子を斬りつけるという大津事件が起こり、榎本は外務大臣に就任した。条約改正交渉を継続し、領事裁判権の撤廃に尽力している。同27年には第2次伊藤内閣の農商務大臣に就任した。在任中の同29年に製鉄所官制が公布され、製鉄所(官営八幡製鉄所)初代長官に箱館戦争からの腹心の部下であった山内堤雲を任命した。また、以前から問題となっていた足尾銅山の鉱毒問題に際して、被害地を視察し、鉱毒調査委員会を設置している。政治から引退した後も工業化学会会長(同31年)、窯業協会 会長(同31年)にも就任し、化学等の分野でも貢献した。同33年、盟友黒田清隆の死去の際は葬儀委員長を務めた。
 明治41年(1908)年10月26日に腎臓病で死去、享年73歳。榎本は旗本の息子として幕府に忠実に使えながら、オランダ留学を期に世界に目を向け、多くの学問を習得し、語学にも堪能であった。その才能故に箱館戦争の敗戦後も新政府で重用され、明治日本の発展に多岐にわたり大きく貢献した。榎本の目指したものは留学時から思い描いた理想の国家の建設だったのだろう。

(宗教新聞令和5年9月10日号掲載)

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